震災30年、私の原点(2025年2月)
阪神淡路大震災から30年が経ちました。
当時私は、小さな新聞社で働き始めたばかりで、現地に飛び込んだ先輩記者が寄せる記事や、ある方が直後に垂水の海まで走り抜けたビデオ映像に衝撃を受けながら、新米記者として、電話で被災状況や救援団体の活動状況など、正確な情報を可能な限り多く集め、通常取材もしながら紙面作りに励みました。
最初に被災地に入ったのは2か月後の3月下旬でした。
2人の取材班として送り出してもらい、私はまだ免許を持ってなかったので、往復も含めて運転してもらい、大阪から淡路島まで、つてを辿りながらの取材旅となりました。
工場が被災し、警備員が亡くなった長田区で靴工場を営む方に、菅原市場を案内してもらいました。
激しい火災のあとを見たのに、なぜか色が抜け落ちた印象しか残っていません。
カラー紙面が珍しかった当時の取材撮影がモノクロフィルムだったせいでしょうか。
避難者でごった返す神戸市中心部の小学校体育館で活動する人、発災翌日から人工透析を続けていく困難を抱えた方、行く先々で話を聞きました。
被災者の心のケアに、迷いながら取り組むカウンセラーは「震災2か月後の被災地は『怒りの時期』、人々は地震以上のことで傷付いています」と語りました。
一方で、外国につながりのある人々が共同で暮らす場では、温かいもてなしを受け、力をもらいました。
敷地に仮設風呂を作ってしまう人もいました。
後に開通する明石海峡大橋を見やりながらフェリーで淡路島に。
最も震源に近かった町のひとつ、津名郡淡路町(現在の淡路市)のある地域では、消防団や近所同士が、誰がどの部屋に寝ているかも把握しており、当日午後1時には全員の安否がわかったそうです。
「保守的と思うだろうが、細胞のように結びつく、地域の強さが表れた」との地域の方の言葉は印象的でした。
芦屋駅だったと思います。電柱が傾き、ひしゃげた建物が並ぶ中、多くの人が行き来していました。
そこで肩をぎゅっと寄せ合って歩く、ひと組の家族の姿に目を奪われました。
必ず幸せになってくださいと、ぐっとこみ上げるものがありました。
あれから30年、日本は「災害大国」であっても、いまだに「防災先進国」とは言えません。
被災地の多様な実相を垣間見ることとなった、あの取材は、私にとって、防災対策や災害対応の原点のようなものになって心に刻まれています。
(写真左は、震源近くから見た明石海峡大橋、右が被災した長田区付近。戸村町長が当時撮影したもの。)